※念願の「松前詣」、小娘と共に・・・

せたな〜熊石〜江差〜上ノ国〜松前〜福島〜知内〜木古内〜上磯〜箱館〜七飯〜北斗・・・そして、まんべ、有珠、小樽、岩内、月形を巡った私の備忘録です。


出発前、せたな三本杉岩にて・・・( ̄ー ̄)


折々、綴っていきます・・・m( _ _ )m


※資料収集の為、ネット上のコピペが多数含まれますが今後整理してまいります。今しばらくご容赦のほどお願い致します。


※太田の海・・・


※対面に奥尻島を望む・・・この島には武田信廣公が初めて上陸したとされる「初松前」という地名が残されています。



※太田山の麓、拝殿から奥殿を望む・・・


マムシ・ヒグマ注意!?(」゜ロ゜)」

マジかよっ!?

突っ込みたくなる注意看板∧(_ _)∧

樹木で見えませんが、目前には日本海が広がり奥尻島が見えます。

※本殿


※せたな・太田山神社

嘉吉年間(1441-1443年)に創立されたと伝えられている。
享徳3年(1454年)に松前藩祖、武田信廣らが太田に上陸した際に太田大権現の尊号を賜わり、以来、航海の安全と霊神の加護として信仰されている。




※江差 鴎島 「開陽丸」


開陽丸は1866年10月オランダでつくられ、1867年3月日本に到着しました。それからその時の政府・徳川幕府の旗艦として働くのですが、徳川幕府が力を失い天皇が政治の実権を握るようになり、徳川の家臣たちは開陽丸を奪い北海道へ逃亡します。その抵抗も長続きせず最後には開陽丸も江差で座礁・沈没したのです。


※上ノ国三社「砂館神社」

室町時代の1462(寛正3)年に建立された。本道の神社では最初に記録に現れる古い神社。長禄元(1457)年のコシャマインの戦いで勝利した武田信廣が新しい拠点として築いた洲崎館の北の守り神として建てられ、以来松前藩の信仰の対象となった。最初の本殿は1788(天明8)年に焼失し、その責任をとって北村名主が自殺した。現在の神社は翌1779(安永8)年、藩主・松前道廣によって再建されたもので、その後江戸時代に三度程修理が行われている。


※上ノ国三社「上ノ国八幡宮」にて参拝。


こちらの神社も北海道で最古級の歴史のある神社です。


松前氏始祖・信廣公に縁のある神社です。


※文明5年(1473)武田信廣が勝山館内に館神として創建した社で、北海道神社史上貴重な存在です。
本殿は元禄12年(1699)の建立で北海道内に現存する神社建築では最古に属する。
明治9年現在地に本殿を遷しました。伝説大蔵鰊の若宮社を合祀しています。
松前家13代道廣、14代章廣の書が社宝として伝えられているほか、福井特産笏谷石製の狛犬が社殿奥深く祭神を護っています。


※上ノ国三社「夷王山神社」

夷(医)王山は、松前氏の祖武田信廣や蠣崎氏一族の居館・勝山館の「詰めの丸」ともいわれ、標高159mの山頂には武田信広を祀る夷王山神社(古くは薬師如来などを祀り、医王山頭陀寺と言った。)があります。
 山頂に登ると、かつて日本海交易の出船入船で賑わいをみせた天ノ川河口や大澗、奥尻島や大島が浮かぶ日本海が一望できます。


大澗ノ崎には窓岩があり、この穴に上が階段のようになっていて「神の道」と呼ばれている。

この「神の道」から夜更けに不思議な燈が上がるが、これはいわゆる「龍燈」で、海の神
「龍神」が太平山の山の女神に逢いに、「龍燈」となってシャンシャンと八幡牧野を通っていくという
伝説がある。数年前まで実際に沖合から「龍燈」を見たという人がいた。


※知内・雷公神社

 コシャマインの戦いの時、知内を通った武田信廣が加茂の二社を一社にして再建し、雷公神社と呼ぶようになりました。

雷公神社所蔵の「大野土佐日記」という古文書には、鎌倉時代の将軍の命により、元久2年(1205年)甲斐の国(山梨県)から来道した荒木大学という人物によって、砂金堀りが始まったという記述があります。

雷公神社は寛元2年(1244年)に山城国加茂からの奉遷説と、元久2年(1205年)荒木大学が加茂二社を建立、享徳2年(1453)両社をあわせて雷公神社としたとの説があります。大正4年(1915)に上雷から現在地へ移動しているが、知内川沿いの雷野にあったとする記録もあります。

明治9年(1876)村社。末社に松前数馬之助(由廣)をまつる荒神社や、下国恒季をまつる雷電社があります。


※知内・雷公神社末社・荒神社(あらがみしゃ。松浦武四郎曰く、雷荒神社の記述あり)


松前藩藩主5代慶廣の四男、数馬之助由廣(千早振由廣とも。1594〜1614、伊豫景廣の兄)は、剛の者だが蹴鞠や歌謡も得意だったという、武舞両道の武士であった。

ちょうど関が原の戦いから10余年たった7代公廣(きんひろ)の時代、慶廣はすでに隠居していたが公廣が幼かったので実権を握っていた。かつて豊臣秀吉に謁見して蝦夷地支配を認めてもらった慶廣だが、今後は豊臣家との長いよしみを捨て去り、徳川家につくことがお家安泰につながるとして、藩主の公廣をはじめ息子や孫たちに相談した。

公廣をはじめとしてほとんどが慶廣の意見に賛成したが、ただ一人数馬之助だけが太閤秀吉に忠節を尽くし、秀頼を支えることが武士道だ、と慶廣に反対した。
慶長17年(1612)年、数馬之助は母の追善に高野山に詣でた帰りに大坂に寄った。その二年後の大坂冬の陣の際、数馬之助が大坂方に加担しようとした事や、つまらぬことである武将を斬ってしまったことに激怒した父・慶廣が、討手(工藤祐種)を差し向けた。斬り合いの末、ついに力尽き数馬之助は自刃した。

慶廣は北の丸に堂を建てて息子の冥福を祈ったが、ある朝南向きだった堂がいつの間にか東向きになっていた。何度直しても東向きになってしまう。
慶廣は恐れおののき、城下の予言者の尼に占ってもらったところ、数馬之助の霊が知内の山を彷徨っていて、一振りの太刀が置いてあるという(数馬之助の霊が巫女に「成我神其名云雷天荒神」と言わせたという)。調べると、尼の言うとおり毛無山山麓の栗の木に、数馬之助の太刀を見つけた。

栗の木は、「太刀がけの栗」と言われて御神木として崇められた。西北の風が強く、他の木は風になぶられてその方へ伸びていくのに、この木の枝はなぜか松前の方向を向いて伸びていったという。人々は数馬之助の霊が、まだ鎮まらずに松前を睨んでいると噂した。
その地に3代藩主公廣が荒神社を建立し、供養のため数馬之助の脇差しをご神体として、羽織箱に入れて埋めたという。
その翌年(1616)、慶廣が急死した。城内でも数馬之助の祟りが噂された。
さらに、数馬之助の弟・安廣が、兄の霊を弔うために仙台から12本の黒松を送り、荒神社そばに植えた。しかし、この松の枝もやはり松前へ向かって伸び始めた。


寛永14年、荒神社の祭神である松前数馬介由廣の弟で知内を知行地にしていた仙台の松前安廣が兄の霊を弔うために贈ったと伝えられています。


※三代目・片倉小十郎景長

寛永7年(1630年)、仙台藩士・松前安廣の子として誕生した。母は片倉重長(妻は真田幸村子女・阿梅)の娘・喜佐。
外祖父の重長に男子がいなかったため養子となり、重長の死後に家督を継いで国家老となった。


※片倉家ゆかりの札幌市白石区

白石区の歴史は、戊辰戦争で敗れた仙台藩の白石城城主・片倉小十郎(片倉氏)の家臣が移住したことに始まり、1871年(明治4年)に最月寒(もつきさっぷ)と呼ばれていた現在の白石中央付近に入植した。冬の寒さに耐えながらも現在の国道12号沿い(白石公園付近から白石神社までの間)に短期間で住まいを築いたため、働きぶりに感心した開拓使の岩村通俊判官は郷里の名から「白石村」と命名した。


「本丸」到着!?(*´∀`*)


車を走らすこと数時間・・・松前到着です。

北海道、最南端・・・

津軽海峡の先・・・目の前に青森が。


※蠣崎家(後の松前家)が居城としていた大館より福山(現在の松前城の位置)に移り、1600年(慶長5年)から慶長11年にかけて陣屋を築いた。

後にロシア艦隊などが来航すると幕府は、1849年(嘉永2年)に北方警備を目的に、松前崇廣に福山館改築(松前築城)を命じた。


石田城と並び日本における最後期の日本式城郭である。北海道内で唯一つの日本式城郭である。

戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)との戦いにおいて落城した。天守は1949年(昭和24年)6月5日に失火により焼失した。そのため、創建当時から現存する建築物は切り妻造りの本丸御門と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)および旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみである。


※松前氏、菩提寺「法幢寺」


歴代の藩主が眠ります・・・


※法幢寺は諸説あるが1470年に若狭国の僧・宗源和尚が大館に開創したことが始まりで、その後1513年アイヌとの戦乱の中で焼失するが、松前家3世義広・4世季広の2代にわたり再興し、1546年に開山する。以来松前藩の菩提寺としてつづく曹洞宗の寺院である。裏手には、松前藩主松前家・歴代の墓所が繋がっている。1834年(天保5年)に、松前家御霊屋と山門が再建され、山門には四天王像が配置され、御霊屋には、松前家の始祖・武田信廣より18世松前徳廣まで、松前家一族の位牌が安置されている。内陣格天井には蠣崎波響の格調ある花鳥の画が配されている。
その後1868年(明治元)の箱館戦争時に、御霊屋と山門を残して焼失してしまうが、1881年(明治14年)には再建される。寺宝として兆殿司筆の羅漢図と10世矩広筆の涅槃(ねはん)図などがある



私の家系は「新羅之記録」を編纂した景廣(河野流松前家)の直裔のようです。

調べてみると・・・

松前景廣直裔、奥尻松前家・・・など曽祖父の名前も記されています。

※松前景廣〜江戸時代前期の武士。蝦夷地の戦国大名、松前藩初代藩主・松前慶廣の六男。子に宣廣、廣維あり。

慶長7年(1602年)、父・慶廣の命で父の母方の祖父・河野季通の名跡を継ぎ、河野氏当主の通称である加賀右衛門を称した。しかし松前姓に復姓し、父の死後から宗家の藩主を補佐した。寛永20年(1643年)に隠居し、快安と号して出家した。

明暦4年(1658年)1月18日に死去。享年59。

信仰心が非常に厚く、多くの神社仏閣を建立した。

※河野季通〜河野氏の一族とされる河野政通の嫡男として生まれる。父同様、安東氏(政季・忠季)に臣従して「季」の1字を賜い季通と名乗る。
 父とともに蝦夷地開拓を行っていたが、それに反発したアイヌの軍勢によって永正9年(1512年)に宇須岸河野館を攻撃され、父の政通と3歳になる娘を逃した後に自害した。
 娘は後に蠣崎季廣の正室となり、松前慶廣等を産んだ。季通死後、河野氏の名跡は断絶していたが、慶廣の六男(景廣)が継ぎ、河野時廣と名乗ったが、後に名字を松前に戻して、松前景廣と名乗った。以後は河野流松前氏として松前藩の藩政に貢献した。

※河野政通〜「政通」の「政」の字は、陸奥国の豪族で主君とされる安東政季、または政季にその字を与えた室町幕府第8代将軍足利義政から受けたものと推測される。
 出自は不詳だが、越智氏の末裔を称し、伊予河野氏(河野氏宗家)の一族と推定される。陸奥国と伊予河野氏には鎌倉時代から繋がりがあり、河野通信終焉の地も陸奥国江刺郡であり、その孫河野通重(みちしげ)も陸奥国稗貫郡寺林城(現岩手県花巻市)を拠点として活動していた。
 享徳3年(1454年)、安東政季が蝦夷地に渡り、それに従って武田信廣らとともに政通も蝦夷地へと渡った。宇須岸(現函館市弥生町)に宇須岸河野館と呼ばれる館を築き、その館が方形であったため、箱館(後の函館市)という地名の発祥となった。茂別館主下国氏を補佐して蝦夷地の開拓に当たった。
 このような和人の蝦夷地開拓に反発したアイヌは、康正3年/長禄元年(1457年、応仁の乱の10年前)のコシャマインの戦いで宇須岸館を攻撃。その際に政通はアイヌの捕虜になったとも伝わる。また、永正9年(1512年)に宇須岸館が攻撃されて陥落、子の季通は父・政通と娘を逃がした後に自害。政通は孫娘を伴って松前に逃れたという。政通のその後は不詳だが、逃れた先で孫娘はのちに蠣崎季廣(武田信廣の曾孫)の正室となり、その子松前慶廣は初代松前藩主となる。



※ 知行場所(アイヌとの貿易拠点)の一つにルルモッペ(現在の留萌)場所があった。 最初に開設された時の知行主が誰であったかは不明であるが、 寛永十一年(一六三四)に松前藩主慶廣の第六子景廣が知行主となっている。

※四世季廣と河野氏女との子、五世慶廣が六男景廣に河野家を継がせ、はじめ河野(河野氏は瀬戸内で河野水軍として知られ、配下に村上水軍も)と称しましたが、のちに松前姓を名乗り、景廣の系統は「河野流松前家」と呼ばれました。景廣は一族の系譜・歴史を書き連ねた『新羅之記録』を編纂したことでも知られています。
 河野流で名前の挙がる人物としては、景廣の孫の五代元廣がいます。かれはシャクシャインの戦いの時に第三陣の将として出征し指揮を執っています。また、延宝3年(1675)には家老職となりますが、この時期は藩政が安定せず、家老変死事件や公訴事件などが相次ぎ、辛労を重ね現職のまま没しています。その他にも廣候、廣通、廣寛、廣典など執事・家老などを務めた人物を輩出しています。

※初代・信廣公が祀られています。


おもしろい話を伺いました。


新選組二番隊組長・永倉新八が江戸松前脱藩(後に帰藩、小樽にて没)は有名な話です。


大和(江戸?)柳生とのつながりです。


八代目、柳生俊則は蝦夷松前藩から養子に入り、新陰流を受け継ぎ将軍家に「剣」を指南したとのこと。


柳生 俊則(やぎゅう としのり、享保15年(1730年)- 文化13年6月5日(1816年6月29日))は、大和柳生藩の第8代藩主。
蝦夷松前藩主松前邦廣の次男。正室は柳生俊峯の娘。子は柳生俊永(次男)、柳生俊睦(三男)。官位は従五位下、采女正、能登守、但馬守。
松前で生まれる。通称は為次郎、采女。初名は賢廣、満廣、俊満。宝暦3年(1753年)7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となり、宝暦13年(1763年)の俊峯の死去により跡を継いだ。天明8年(1788年)、将軍・徳川家斉の剣術指南役を務めている。文化4年(1807年)8月5日、養嗣子の俊豊に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。



生粋の蝦夷松前生まれの人物だったようです。


柳生新陰流とのつながりを知り・・・


一度、新陰流を勉強してみるのもありですね。


英信流の中にも新陰流の業が伝わっていますしね。


居合兵法たる所以でしょか・・・


※この居合兵法や新陰(影)流兵法で用いる「兵法」の「兵」は「軍」を指すものではなく「武具」を指します。武器を操る「法」「理」を解いてます。



※正面のお社は松前藩の先祖に当る武田信廣公をお祀りしています。明治14年に造られ、現在の神明造りの社殿は大正12年総ヒノキ造りで再建されたものです。
信廣公が約540年前コシャマインの蜂起を平定したとき、蠣崎季繁からおくられた名剣、来国俊など十余年振りの刀剣の外、豊臣秀吉から拝領したといわれる桐の彫刻、安政年間の松前市街図があります。


※松前氏祖・武田若狭守信廣公


室町時代後期の武将。若狭武田氏の一族とされているが・・・。武芸・軍学に優れ、蝦夷地(現在の道南・檜山地方)での戦を収めた謎の武将。

「蠣崎氏の女婿となった武田若狭守信廣については、清和源氏若狭武田の嫡流として名高い武田陸奥守信賢の子として、小浜後瀬(のちせ)山城に生まれ、家督問題から出奔し、関東足利を頼り、流浪して、安東政季に同心して蝦夷地に渡り、このコシャマインの乱を平定したことによって、蠣崎氏を冒し、洲崎舘主となって後に花沢舘主になり、さらに勝山舘を築くなど、蝦夷地南部の代表豪族に出身し、やがて子孫は蝦夷地の領主に繁栄する基礎を築き、明応3(1494)年、64歳で没した。夷王山(当時は医王山)はその墳墓地であるといわれている。」

※松前藩初代藩主・松前志摩守慶廣公


蝦夷地の戦国大名。松前藩初代藩主。松前藩の基礎を築き上げた名君として、その政治力を高く評価されている。


※江戸幕府老中、松前崇廣公


江戸時代末期の大名。蝦夷松前藩の12代藩主。のちに老中にもなった。

幕府内の対立から免職し、慶応2年(1866年)1月に松前に帰還したが、同年4月25日、熱病により松前で死去した。享年38。跡を養子・徳広が継いだ。


※「松前藩主松前家墓所」


一段高い所に初代武田信廣・2代光廣・3代義廣・4代季廣合葬墓、信廣の養父蠣崎季繁以下の墓、5代松前慶廣(松前藩主初代)墓等5基の墓を配し、その前面に、7代公廣、8代氏廣、9代高廣、10代矩廣、11代邦廣、12代資廣、13代道廣、14代幸廣、16代昌廣、17代崇廣、18代徳廣、19代修廣をはじめ、その室や直子等の墓36基と2基の燈籠がほぼ□の字形に並んでいて、この墓所の主区画をなしている。


※松前藩校・徽典館


馬外堀坂の途中に徽典館跡がある。文政5年(1822)に創設された藩校だったが、戊辰戦争で焼失した。



松前藩には江戸明倫館と蝦夷徽典館の二校がありました。

後に文武館と改められたとあり。

蝦夷・徽典館では、学問や兵学・武術(剣術・槍術・柔術など)などが学ばれていました。

武術では江戸柳生に婿入りした縁か新陰(影)流も稽古されていたようです。

この他、宝蔵院流、直心影流、神道無念流、間影流、神籍流、シントウ流・・・などの名が資料などで見受けられます。


※松前 景廣 「新羅之記録」(現代語訳)

(正保3年1646年作原本奥尻町松前幸吉所蔵)

※「新羅之記録」が発見されたのは1935年(昭和10年)当時の所有者は松前森松氏(悦太郎氏の父)で現在は孫である松前幸吉氏である。(幸吉氏の兄、重郎が私の祖父であります。)
松前森松氏の父、琢磨氏(通称、悦次郎)は「新羅之記録」の編纂者、松前景廣公の子孫にあたる。旧藩家禄五百二十石、1883年(明治16年)の履歴によれば、旧爾志郡熊石村に移住していた。その後奥尻島に渡り現在に至っている。


■北海道最古の歴史文献「新羅之記録」(しんらのきろく)


1970年(昭和45年)、北海道指定有形文化財として指定。

 今日残された北海道最古の歴史文献で、奥尻町在住の松前氏の末裔の方が所有しています。

 「新羅(しんら)」は、源頼義の三男で、新羅明神で元服した源義光(甲斐武田家の祖)を意味し、上之国花沢館主であった蠣崎季繁の養嗣子となった武田信廣の出自である武田家が新羅三郎の流れをくむものであることから「新羅」の名が付されています。

 なお、蠣崎・松前家は武田の氏族であり、遡れば「源氏」である旨、書かれた系図と史書を兼ねた巻子本となっており、上下二巻あります。

※本史料集を編纂するに際し、特に景廣の直裔奥尻町松前悦太郎氏の好意を受けて、同紙に楷書で写され、題簽には家譜一、二とある。見返しには紺地に金泥で花模様を描き、軸には銀の家紋をつけ、巻首と巻末に新羅宮の朱印が押されているなど、整った体裁をもっている。





※松前神社御神宝「来国俊」太刀

信廣公が約540年前コシャマインの蜂起を平定したとき、蠣崎季繁からおくられた名剣。


※来派(らいは)は、日本刀の刀工の流派の一つであり、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて山城国(京都府)で活動した。主な刀工に国行、国俊(通称「二字国俊」)、来国俊、来国光、来国次らがいる。

鎌倉時代末期の刀工。国行や二字国俊に比べ、細身の穏やかな作が多い。来国俊以降、短刀の作を多く見る。刃文は直刃を主体とし、乱れ刃の作でも小丁子、小互の目を主とした穏健な作風のものが多く、大模様の乱れ刃の作はまず見かけない。現存作は太刀、短刀ともに多く、薙刀や剣もある。正応から元亨(1288 – 1324年)に至る在銘作があり、この間同名2代があるとする説もある。徳川美術館には「来孫太郎作」銘の太刀があるが、銘振りから「来孫太郎」は来国俊の通称とされている。


※新羅之記録上巻(奥尻町松前幸吉氏所蔵)


※河野流松前家(現奥尻松前家)・松前伊豫景廣家系略図。


悦太郎次男、重郎(分家・祖父、旭川の師団から満州に出兵。幸吉氏の兄)ー新太郎(父・奥尻生まれ)ー新悟(私、白老生まれ。氏祖武田信廣公より23世、河野流松前家18世)ー静流(娘、白老生まれ。)が私の家系になります。



※河野流松前氏の祖、松前伊豫景廣である。河野流とは、長禄元年(一四五七)に発生したコシャマインの兵乱の際戦死を遂(と)げた箱館館主河野加賀守政通 の家系を保存伝承するため、松前氏第五世藩主慶廣が、六男の景廣に松前氏を冠称しながらその家系を守らせ、従って河野流松前氏と称した。

松前景廣の兄弟は、長男が松前氏の第六世藩主となり、次男忠廣は幕府の二千石の寄合席旗本となり、三男利廣は南部氏に禄仕の後、松前に帰り家老となったが、元和四年(一六一八)本州に逐電(ちくでん)して行方不明となっている。四男数馬之助由廣は大坂方に内通 し父慶廣に殺され、弟の七男松前右兵衞安廣は仙台藩に禄仕し二千石の大身家臣となり、その子は白石城主片倉小十郎の婿養子となって片倉家一万八千石の城主となっており、一人六男の景廣のみが松前藩に執政職(家老)として勤務し、兄の第六世藩主盛廣、第七世藩主公(きん)廣を扶(たす)けて藩政に精励した。
 景廣は慶長五年(一六〇〇)の生まれで、三歳のとき河野家の継嗣となり加賀右衞 門と号し、のち美作(みまさか)、伊豫(いよ)とも号した。藩執政として活躍し、寛永二十年(一六四三)病のため四十三歳で執政を辞した後、髪を剃って隠居し快安と号した。正保二年(一六四五)松前氏の家系及び蝦夷地における祖先の履歴を詳細に記述して『新羅之記録』(上・下二巻)にまとめ、これを三井寺園城寺内の源氏の氏神新羅神社に持参し、加持祈祷を経て一組を同社に奉納、一組は松前氏が新羅源氏の出族若狭武田氏出身である印可を得て持ち帰った。その後、永く同家の家宝として他見不出を守り、同家の末裔奥尻町松前幸吉家に保存されている。初祖景廣は万治元年(一六五八)五十九歳で没し、子孫は代々松前藩の寄合席執政職として藩政に大きく貢献してきた。
 このような家格と藩政への貢献によって、景廣には留萌、天塩の両知行場所のほか、特に白符、木古内、北村(上ノ国町)の三村を和人地の采領地として下賜されたものである。


※幕府直轄後の善光寺。

※初代藩主・松前慶廣公が再興した如来堂(有珠地蔵堂)


※天長3年(826年)、比叡山の僧であった慈覚大師が、自ら彫った本尊阿弥陀如来を安置し、開山したと伝えられている浄土宗のお寺です。
慶長18年(1613年)、松前藩主慶廣が如来堂の再建を図りました。
 その後、文化元年(1804年)、時の将軍徳川家斉公により蝦夷三官寺のひとつとして、正式な健立をみた江戸の芝増上寺の末寺です。


※木古内・佐女川神社。

松前藩地頭の河野加賀守源景廣(松前伊豫景廣)により、寛永2年(1625)に佐女川のほとりに武運長久を祈願し、祠(ほこら)が建てられたのが始まりといわれている。主祭神は、初代天皇神武天皇の母上にあたる玉依姫命で、当時はこの河口に建てられた神社の主祭神が玉依姫命だったことから、女神に助けてもらう川として「佐(助けるの意)女川」の字をあてという伝承もある。

寛永2年(1625)松前伊豫景廣の創建と伝えられています。玉依姫命・高皇産霊神・神皇産霊神・倉稲魂尊を祭り、明治8年(1875)村社。
古書に木古内に観音堂があったとあるので、円空作の仏像は当初その観音堂にあったのかもしれないとの説もあります。

寒中みそぎの有名な神社です。



※河野政通〜伊予国(愛媛県)の越智氏から出た河野氏の後裔とされ、加賀国江沼郡(石川県江沼郡)の出身で、河野加賀右衛門尉越智政通と称した。箱館草創の館主で、生没年は不明である。遠祖は、伊予国河野荘河野新太夫通清。流浪して南部の田名部(現・むつ市)に到る。
享徳3年(1454)8月28日、津軽の豪族安東太郎政季(まさすえ)に従って、南部大畑より武田信廣(松前氏の始祖)、相原政胤(まさたね)らと蝦夷島(北海道)に渡る。2年後、政季が秋田に赴く際、茂別館(現・北斗市)を下国家政(政季の弟)に預け、政通を副主にしたという。
河野政通は、当時「宇須岸(うすけし)」と呼ばれていた当時の函館に「館」を築く。これが「宇須岸河野館」である。
 その館が箱形だったので、「河野館」に由来して、宇須岸は「箱館」と言う地名の発祥となったという説が有力とされている。(明治2年に蝦夷地が北海道となり、箱館も「函館」と改められた)
宇須岸の館に拠り、河野政通・季通(すえみち)の父子二代58年間この地を治めたが、長禄元年(1457)コシャマインの戦いで館はアイヌに攻め落とされた。のち回復するが、永正9年(1512)4月16日、再びアイヌの戦いで二代季通(すえみち)は父・政通と娘・3歳の蔦姫を逃がした後、一本木(現・若松町)で奮戦自害し、家名断絶となる。この戦いの後、住人は亀田に移り、箱館は以後100余年にわたって衰退した。
季通の娘・蔦姫は、乳母に抱かれ富山三郎武通に守られて松前に逃れ、長じて松前氏四代蠣崎家当主の季廣の正妻となり、松前藩祖となる五代慶廣(よしひろ)を生む。
慶長7年(1602)、松前慶広の六男の松前景廣が名跡を継いで河野加賀右衛門と名乗るが、すぐに松前姓に戻し、河野系松前家と呼ばれる。アイヌとの戦いにより、次第に住民は繁栄を誇ったこの地帯から追い払われ、函館周辺から上ノ国、福山(現・松前)の地に移っていく。


※称名寺は、正保元年(1644年)円龍上人が亀田村(現市内亀田八幡宮辺り)に阿弥陀庵を建てたのが始まりといわれており、箱館開港当初はイギリスとフランスの領事館としても利用された古い寺院である。

明暦元年(1655年)阿弥陀堂と称したが、元禄3年(1690年)称名寺を公称し、宝永5年(1708年)亀田の衰退と箱館の繁栄により箱館の富岡町(現・弥生町 弥生小学校)に移転した。

明治12年(1879年)の大火で本堂を焼失し、同14年(1881年)この地に移転した。その後、幾度か大火のため建物を焼失したが、昭和4年(1929年)現在の鉄筋コンクリート寺院が完成した。

境内には河野政通の供養碑をはじめ、高田屋嘉兵衛の顕彰碑、土方歳三と新撰組隊士の供養碑があるほか、北海道最古の石碑として有名な「貞治の碑」(貞治6年2月(1367年)の銘がある板碑で北海道指定有形文化財)が保存されている。

また、墓地には箱館発展のもとを築いた高田屋一族の墓、新島襄の海外渡航を助け日本最初の気象観測所を開設した福士成豊、日魯漁業株式会社創立者堤清六の碑など、著名な人の墓がある。

※本堂南側には、河野加賀守政通の供養塔があります。享保3年(1454)、主君・安東政季(まさすえ)が蝦夷地に渡ったとき、武田信廣(のちの松前藩の始祖)らとともに蝦夷地へ渡りました。政通は現在の基坂(もといざか:函館市末広町)の上に館を築きましたが、その形が方形だったため「ハコダテ」と呼ばれ、これが箱館の地名の由来となったといいます。なお、この館は、アイヌと和人との戦いであるコシャマインの戦いで、永正9年(1512)に陥落しました。この碑は、宝暦3年(1753)に松前藩の亀田奉行が建てたものです。


※毎年、四月八日に政通公の供養祭が執り行われております。


※箱館八幡宮・・・河野加賀右衛門尉越智政通ゆかりの神社です。


※箱館八幡宮

 社伝によると後花園天皇文安2年(1445)亀田郡の領守河野加賀守政通が、函館に館を築いた時、その東南の隅に八幡神をお祀りしたと伝えられ、それは現在の元町、公会堂前あたりであったと言われている。永正8年河野一族蝦夷に館を陥され亀田郡赤川村に動座慶安年間巫女伊知女が赤川村より凾館元町に奉遷、寛政11年幕府は東蝦夷を直轄とし、奉行所を置くに至り、本宮はその用地なるを以て文化元年幕府の費用を以て会所町に奉遷、明治13年更に谷地頭に奉遷申し上げ現在に至っている。明治10年5月28日国幣小社に列格し、同29年10月19日国幣中社に昇格した。現在の社殿は大正4年に竣成したもので「大正式八幡造」の代表作と言われ、社殿の形式は聖帝八棟造りで、聖帝造(日吉造とも言い藤原時代の寝殿造の後方の一間を切り取った形)に、八棟造(権現造とも言い本殿と拝殿とを中殿で連結)を併せた実に森厳にして優雅である。
 


※七飯町、一本栗地主神社

この木は樹齢600年とも1000年とも伝えられ、樹高約15m、直径約1.5mありクリとしては誠に珍しい大樹です。
 15世紀半ば、ちょうど応仁の乱の10年前、長禄元(1457)年に起きたアイヌ民族と和
人が戦った「コシャマインの戦い」ではこの樹の周辺が激戦の地となり、(函館山山麓に「函館」の名前の由来となった箱形の館を築いた)河野加賀守政通ほかその戦いで最期を遂げた多くの武将や明治維新最後の内戦の箱館戦争で敗れた兵士たちの御霊が宿っていると伝えられる。


※伊予河野氏との関係は諸説あり・・・「河野政通と伊予河野氏」より抜粋。


 中世伊予の大名河野氏の系譜に、「河野政通」という人物を見出すことはおそらくできない。
 
 この「河野政通」という人物について言及したのは山内譲氏(愛媛県生まれ、日本史学者。「中世瀬戸内海地域史の研究」で文学博士。専門は中世瀬戸内海地域史)
である。

 応仁文明期の複雑な河野氏の動向について研究史を明瞭に整理される中で、その史料『応仁記』『群書類従』『細川勝元記』『続群書類従』に周防大内氏とともに上洛した河野氏について「河野四郎」や「河野四郎政通」とあり、その人物比定を足がかりにこの時期の河野宗家と庶流予州家の対立とその動向を検証。
 
 河野氏の系図には見えない「河野政通」なる人物を「教通」「通春」のどちらに比定できるか、複雑な研究情況と数少ない関係史料を慎重に検討した結果、「予州家通春」であろうと推測された。
 
 一方、中世の蝦夷・北奥羽における諸勢力の中に、「享徳三(一四五四)年八月、南部氏の傀儡だった安東(安藤)師季(政季)は、下北大畑より海路蝦夷ケ島松前に逃亡し「安藤亡命政権」を再興させ、政季を擁立して蝦夷ケ島渡海を成功させたのは武田信廣・相原政胤・河野政通ら、若狭・下総・伊予などから海路下北に集まっていた浪人衆と、もとからの下北蠣崎の土豪衆であり・・・」、応仁の乱を遡ること十三年ほど前に、伊予の「浪人衆」として「河野政通」という人物が下北安藤氏のもとにいたというのである。
 
 この「政通」は、渡海後居館を構えるが、その形が遠くから見て箱に似ていたからその地を「箱館」と称するようになったという伝承もある。

 政通は、加賀守・右衛門を称し、その出自は「越知氏」であるという(『新羅之記録』)。その子季通は永正九年(一五一二)アイヌとの戦いで自刃し、父政通は季通の女を連れて松前へ至り、蠣崎季広にその子を嫁がせた。そして生まれたのが後の松前藩主慶廣である。その庶子景廣(注・別資料には松前伊予景廣の記載も)は季通の名跡を継ぎ、後に松前氏を称して家臣となっている。
 
 河野だけでなく、武田や相原、村上といった伊予・若狭・房総・信濃に出自を持つとする人物が各地から安藤氏の許に集まっており、この「河野政通」が伊予に関係があることはほぼ間違いないと考える。
 
「細川勝元記」の「河野四郎政通」と、蝦夷まで足を踏み入れた「河野政通」

偶然の一致なのか、それとも同一人物なのか、その答えを出すには今後の史料検討を待たなければならない。

この人物の実在を立証することは、この時期の河野氏の動向の解明にまた一歩近づくのみならず、当時の交易や流通を知る上でも重要な手がかりになりはしないだろうか。とくに河野氏は水運との深い結びつきがあったことは周知の通りであり、そのネットワークがあるいは政通の道しるべになっていたのかもしれない。


また、このようなご指摘・ご教授承りました。(抜粋)


※函館の河野氏であれば伊予河野氏の末裔と思われます。10年以上前から伊予の中世史の歴史家は箱館の語源となった河野氏を追っています。箱館河野氏は後に武田氏と合流し松前藩を創ったとされます。

河野通清を遠祖とするとしますので、通清の子通信が幕府に逆らい奥州江刺に配流されます。この時、貴家の河野政通(まさみち)も加賀に配流されたのでしょう。この時河野通平は越後国の配流されこの子孫が河野武藤家を継ぎます。通信配流は伊予河野家滅亡に近いもので、唯一、通久が伊予河野家を守ります。

尚、「通」は伊予河野家の通字です。

河野加賀右衛門尉越智政通 は本姓越智、元姓河野、現姓加賀、尉(じょう)は官位、政通(通り名)に分解できます。
よって政通は最初は通○であったのが上司の偏諱(政)を受け、政通と名乗ったと思われます。


他の伊予河野家支流や家臣たちは天正13年の湯築城落城、同15年の河野家断絶により全国に離散します。多くは伊予、安芸、備後、防州ですが、秀吉に睨まれており、変名や改名した家も数多く、河野一門記録に名が出てこない家もたくさんあります。



※開拓神社は、北海道神宮の末社として指定されており、元は昭和13年に北海道開拓70年を記念して建立された開拓奉斎殿が前身になります。建立された当時は、奉斎神として松前氏の始祖である武田信廣以下36柱が鎮座し、その後昭和29年に帯広の農聖と称された依田勉三が加わえられ、現在は功労者37柱の御祭神をお祀りしています。

 御祭神 北海道開拓の功労者 三十七柱

武田 信廣 命 鈴鹿甚右衛門命 吾妻  謙 命 

松前 慶廣 命 井上 長秋 命 佐野孫右衛門命 

佐藤 信景 命 松前 徳廣 命 伊達 邦直 命 

村山 伝兵衛命 田崎  東 命 黒田 清隆 命 

松田 傳十郎命 鍋島 直正 命 小林 重吉 命 

本多 利明 命 島  義勇 命 永山 武四郎命 

伊能 忠敬 命 松川 弁之助命 岡本 監輔 命 

高田屋嘉兵衛命 続  豊治 命 伊達 邦成 命 

栖原 角兵衛命 下國 安藝 命 東久世 通禧命 

最上 徳内 命 清水谷 公考命 田村 顕允 命 

近藤 重蔵 命 早川弥五左衛門命 岩村 通俊 命 

間宮 林蔵 命 松浦 武四郎命 依田 勉三 命

中川 五郎治命
 


※紀州・高野山にある松前家墓所

※河野流松前氏初代、松前伊豫景廣(河野加賀右衛門時廣)の墓。法幢寺・松前藩主墓所の一段下がった所に祀られています。


※松前神社〜氏祖・信廣公と護神刀・太刀「来国俊」が祀られています。

※江差・姥神様です。


※享徳3年(1454年)に松前藩祖、武田若狭守信廣らが太田に上陸した際に太田大権現の尊号を賜わり、以来、航海の安全と霊神の加護として信仰されている。
 北海道道740号北檜山大成線沿いに最初の鳥居が建っているが、そこからは平均45度の斜度を持つ急峻で長い石段が現れる。それを過ぎると草木の生い茂る獣道にも似た山道や足場が続く。付近一帯はヒグマ、ブヨ・蚊・ハチやマムシに遭うことがあり注意・対策が必要である。途中には仏像が置かれた大石や女人堂があり、山道の最後に高さ7mはある北尋坊の崖がある。そこに設置された鉄輪とロープを使って登ったところに太田山神社の本殿が建っている。

※創立年代不詳。本州からの渡海者が伊勢皇大神宮の大麻を奉じて「カムイナイ」(アイヌ語)という小沢に鎮座したと伝えられる。天正2年(1574)福島村常磐井家の遠祖常磐井治部大輔藤原武衡再建。更に慶安2年(1649)9月16日村中にて再建。時に3代祠官笹井(常磐井)今宮藤原道治斎主となり、第九代松前藩主松前高廣の命により福山神明社より古神鏡を奉遷し遷座祭を斎行。文化4年(1807)社殿焼失し、現在の「鏡山」の地に社殿を遷座。明治9年福島神明社を現社名に変更し、旧郷社に列せられる。


※共に氏祖・信廣公にゆかりのある知内・雷公神社と上ノ国八幡宮です。

※河野流松前家・松前景廣(河野加賀右衛門景廣)が建立した、木古内・佐女川神社と箱館・館主、河野加賀右衛門政通の供養碑がある、箱館・称名寺(こちらには土方歳三や新選組隊士の供養碑もあります)


※上ノ国三社

代々松前藩主は毎年正月元日に三社参りを行いました。(参拝順序が決まっており、砂館、八幡宮、医王山の順で)


※箱館(宇須岸館)・館主、河野加賀右衛門政通が八幡神を祀りしたのが起源とされる、箱館八幡宮です。


※箱館・湯倉神社

五百年以上前に木こりが湧き湯で湯治し、病気が治ったお礼に小さな祠を建てたという伝説が残っているのです。正式な創建は、承応4年(1655)。難病に侵されていた松前藩第九代藩主高廣(幼名・千勝丸/ちかつまる)が、母のお告げに従い湯治したところ全快。その御礼に社殿を改造、薬師如来像を設置し、鰐口を奉納したのが始まりです。

※箱館・亀田八幡宮

松前藩の記録『福山秘府』によれば「時期不明」とあり、1690年(元禄3年)の神社調では「今から百年前くらいからある」となっている。一方、神社の由緒では、1390年(明徳元年)、河野加賀守森幸が氣比神宮から八幡神を奉遷したと伝わる。

コシャマインの戦いの際、武田信廣が祈願したところ、七重浜に生えていた柏が軍勢に見えたため、アイヌが降伏したとの伝説がある。その後、1594年(文禄3年)に松前藩の祈願所となり、1603年(慶長8年)に松前盛広により本殿が建立された。

1847年(弘化3年)、松前藩の箱館奉行であった工藤茂五郎により石造の鳥居が奉納される。1862年(文久2年)、社殿を改築。この社殿は1964年(昭和39年)に現社殿が建立された際に移設され、現在は神輿殿として使われており、現存する函館最古の建物である。

1869年(明治2年)5月の箱館戦争で戦場となり、社務所が焼かれ神輿殿には弾痕が残る。同年5月17日には、榎本武揚らが近くの民家で新政府軍と降伏交渉を行った後、本神社を訪れ、降伏を誓約した。


※氏祖・武田信廣公、初代藩主・慶廣公、最後の藩主・徳廣公が祀られております。

※永倉新八先生が杉村義衛として小樽に移り住み、剣術の稽古場とした「小樽水天宮」と榎本武揚建立の「龍宮神社」です。


      吹雪の日本海、鉛色の絶景を眺めながら・・・一路、「小樽」へ。


※永倉新八〜松前藩江戸定府取次役(150石)・長倉勘次の次男として、同藩上屋敷(江戸下谷三味線堀、現・東京都台東区小島2丁目)にて生まれる。弘化3年(1846年)、岡田利章(3代目岡田十松)の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。4年目に師が亡くなり、以後、岡田助右衛門に教わり15歳で切紙。安政3年(1856年)、18歳で本目録。元服して新八と称する。同年、剣術好きが昂じて[1]脱藩し、永倉姓を称して江戸本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学ぶ。その後、市川宇八郎(芳賀宜道)と剣術修行の旅に出る。江戸に戻ると、伊庭秀業の門人・坪内主馬に見込まれて師範代を務め、その後、近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となる。

近藤らと共に浪士組に参加。新選組結成後は、二番組組長や撃剣師範を務めるなど中枢を成した。元治元年(1864年)の池田屋事件では、近藤や沖田総司らと共に池田屋に突入。沖田が病に倒れ、藤堂平助が負傷して離脱、永倉も左手親指に深い傷を負った中、防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。事件後、新選組の勇名は天下に轟いた。その後、近藤に我儘な振る舞いが目立つようになると、これを遺憾とした永倉や斎藤一、原田左之助、島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎は、脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主・松平容保へ訴え出る等、近藤勇・土方歳三との路線対立を見せる。後、幕府から見廻組格70俵3人扶持(京都見廻組隊士と同格の地位)に取り立てられた。油小路事件では、原田らと共に御陵衛士を暗殺。

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを見せた。江戸に退却後、新選組改め甲陽鎮撫隊として新政府軍と甲州勝沼にて戦うが敗れ、江戸へ戻った後は近藤らと袂を分かつ。その後、靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東にて抗戦するが、米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後、松前藩士(150石)として帰参が認められる。明治4年(1871年)、家老・下国東七郎のとりなしで藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡る。

明治6年1873年、家督を相続して杉村治備(後に義衛)と改名する。その後は北海道小樽へ移る。警察官僚・月形潔の招きで、明治15年(1882年)から4年間、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務め、看守に剣術を指導する[2]。退職後は東京牛込にて剣術道場を開く。明治32年(1899年)、妻と子供が小樽市内で薬局を開いていたため、再度小樽へ転居。明治38年(1905年)から小樽市緑1丁目(旧小樽少年科学館付近)に転居。明治42年(1909年)7月、小樽市花園町に住む。東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導する。

大正4年(1915年)1月5日、虫歯を原因とする骨膜炎、敗血症を発症し、小樽にて死去。享年77。分骨され、墓は東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地。字は蜂須賀正昭侯。


※永倉新八先生 菩提寺 量徳寺さんへ。


※ミニ資料館にて。天井には「誠」の旗。


※「文武館」の書あり。


月形町、樺戸集治監跡・資料館


剣術師範として赴任した永倉新八

 樺戸集治監にいた囚徒以外の有名人物としては、なんといっても幕末の新撰組にいた永倉新八があげられます。神道無念流を身につけた永倉は、新撰組で沖田総司に勝るとも劣らぬ剣の達人でした。明治になって彼は、杉村義衛と名をあらためていました。
 1882(明治15)年、43歳の永倉は月形潔典獄に請われて開庁まもない樺戸集治監にやってきて、1886(明治19)年まで看守たちの剣術師範を務めました。
 囚徒管理のためにこと脱走事件に当たっては刀(サーベル)を抜くことも辞さなかった看守たちにとって、剣道の修練は重要な日課でした。集治監にはそのための演武場があったのです。


※松前藩に帰藩後、小樽に移り住み杉村義衛と名乗った永倉新八先生が剣術稽古をされた「小樽水天宮」


※松前での居住地跡・・・寂しい。

松前町武道場・文武館にて・・・


※松前藩と長倉家・永倉新八先生・新選組とのつながり、箱館戦争の顛末、松前での土方歳三や永倉新八先生(帰藩後の動向も)の軌跡も綴られております。松前城の入口受付で販売されている小冊子です、残りわずかです!


※松前・法華寺


土方歳三率いる旧幕府軍の松前城攻防戦における陣地として使われた。こちらには旧幕府軍の戦没者が墓標もなく「塚」として葬られています。



※碧血碑は、北海道函館市函館山に明治8年(1875年)5月に建立された戊辰戦争、特に箱館戦争における旧幕府軍の戦死者を記念する慰霊碑。土方歳三や中島三郎助などをはじめとする約800人の戦死者を弔っている。

※箱館・称名寺

土方歳三をはじめ新選組、旧幕府軍の供養碑があります。


※榎本武揚建立「龍宮神社」

こちらには榎本家より奉納された隕石(隕鉄)より鍛えられた「流星刀」が祀られております。


※「松前(渡島)大島・小島」


渡島大島は北海道松前郡松前町に属する無人島である。松前大島(まつまえおおしま)とも呼ばれる。松前町西方沖50kmの地点に位置する。大島の名は渡島小島に対してのもの。住所は全域に亘って松前郡松前町大島。


※目覚めると天守閣が見える風景・・・


なんかいいですね〜・・・最北の城下町。

※夏の風物詩・・・前浜うに捕り漁。


奥尻のじっちゃん思い出すな〜(  ̄▽ ̄)


磯船の巻き上げや、ウニのガラ投げ手伝ったっけ・・・


剥いた身には触らせてはもらえんかったな〜(^_^;


奥にうっすら青森が見えてるね〜♪


※道の駅 「北前船 松前」 令和元年

名物「生うに丼」で・・・( ̄^ ̄)ゞ

お土産や、オリジナル松前Tシャツをゲット!!


※松前、老舗温泉旅館・矢野旅館さんで今回はマグロの漬け丼をいただきました!こちらの女将さんは「マグ女」としても活躍しております!

※道の駅・北前船さんではのにくまさんの松前桜や永倉新八先生のオリジナルTシャツがゲットできます!


※旧福山(松前)波止場跡

※蝦夷地最南端・白神岬

北海道松前郡松前町にある北海道最南端の岬である。本州最北端の大間崎より約15km南に位置する。

渡島半島から枝分かれした松前半島の南端で津軽海峡に面する位置にある。周辺は松前矢越道立自然公園に指定されている。

津軽半島の最北端である竜飛崎より19.2キロメートルの距離があり、そこを結んだ東側の地下に北海道新幹線が通過する青函トンネルがある。


※渡島一宮・徳山大神宮


創建の年代は不詳であるが、かつて、秋田・津軽の漁民は毎年春になると当地に渡って漁をし、秋に帰っていたが、アイヌからの危難を逃れるために伊勢神宮の大麻(お札)を祀る小祠を唐津内町に建て、これを「伊勢堂」と称したのに始まると伝えられる。

天正10年(1582年)、領主蛎崎(松前)季広が蔵町(現在の松前町字福山)に遷座して「神明社」と改称し崇敬した。承応元年、松前藩主松前高広が現在地に社殿を造営して遷座し、伊勢神宮から正式に神璽を奉請した。明治4年11月村社に列し、同8年12月に現社名「徳山大神宮」に改称、翌9年10月、郷社に昇格した。大正4年2月、神饌幣帛料供進神社に指定された。


昭和の大横綱!千代の富士!!


箱館までの途中、福島町に立ち寄ります。


北海道が誇る大横綱・千代の富士関にご焼香するためです。


丁度、九重部屋が夏季合宿を行っているとのことでした。


幼い頃TVで観た北海道出身同士の大一番、北の湖vs千代の富士・・・


凄かったね〜!!

※愛刀と土俵入り

愛刀、四口と土俵入りの写真の展示。


※創立年代不詳。本州からの渡海者が伊勢皇大神宮の大麻を奉じて「カムイナイ」(アイヌ語)という小沢に鎮座したと伝えられる。天正2年(1574)福島村常磐井家の遠祖常磐井治部大輔藤原武衡再建。更に慶安2年(1649)9月16日村中にて再建。時に3代祠官笹井(常磐井)今宮藤原道治斎主となり、第九代松前藩主松前高廣の命により福山神明社より古神鏡を奉遷し遷座祭を斎行。文化4年(1807)社殿焼失し、現在の「鏡山」の地に社殿を遷座。明治9年福島神明社を現社名に変更し、旧郷社に列せられる。




※令和元年皐月一日参拝、岩内神社


※岩内神社の由来


寛政年間、松前藩十代藩主・松前志摩守良廣公が守護神である厳島大神を岩内場所請負人熊野屋与左衛門に命じて祭祀せしめ、文久2年8月15日当時上磯国茂辺地村矢不来天満宮祠官池田茂逢に北門防禦の守護神たる八幡神を奉じ祀職を命じ八幡社を創建せしめた。明治9年郷社に列せられ、明治31年4月19日付で岩内神社と改称した。



※源氏つながりで源義経公の北行伝説が残る平取・義経神社にて。



※義経北行伝説

 文治の末(1190年)義経一行が津軽より渡る時、逆波が起こり船がまさに沈もうとした時に、船魂明神の御守護により、つつがなく岸にたどり着くことができました。安堵してこの辺りを歩いていると急に喉が渇き、水を探すと童子の神が忽然と岩の上に現れ、指差す方をみると、清水が滾々と湧き出ており、義経は喉を潤おすことができました。 義経は改めて船魂様の御神徳に感謝したと云われております。


熊石・親子熊岩

ちょっと涙出た・・・


※「函館朝市」


北斗の守護神、ずーしーほっきー大明神!?



※〆はまんべ・かなやさんのかにめしですm(__)m