※念願の「松前詣」、小娘と共に・・・

せたな〜熊石〜江差〜上ノ国〜松前〜福島〜函館〜北斗、そして・・・まんべ


出発前、せたな三本杉岩にて・・・( ̄ー ̄)


折々、綴っていきます・・・m( _ _ )m


いざ!・・・と、簡単には( ̄◇ ̄;)


松前詣の出発は、せたな「太田山神社」から・・・


鳥居をくぐり最初のの難問、石段を登りますが・・・


ほぼ、直角!?・・・( ̄∇ ̄|||)


甘く見てました・・・_| ̄|○


コケたら・・・


真っ逆さまに落ちますΣ(゜д゜lll)


今回、最初の石段でやめます┐(´ー`)┌


本気で参拝するにはフル装備で挑まないと・・・


噂は聞いてましたが・・・


これほどとはε=(・д・`*)


流石は日本一危険な神社・・・((((;゜Д゜)))

※こちらは麓にある「拝殿」です。


マムシ・ヒグマ注意!?(」゜ロ゜)」


マジかよっ!?


突っ込みたくなる注意看板∧(_ _)∧


興味のある方はネットやYouTubeで検索して下さいm( _ _ )m


「本殿」には行けませんでしたが、いい写真見つけたので貼っときます(^_^;)


お借りしましたm( _ _ )m


樹木で見えませんが、目前には日本海が広がり奥尻島が見えます。


しかし、なんて場所見つけたんだろう・・・


ご先祖さまは・・・┐(´ー`)┌

※本殿(ネット画像から拝借m( _ _ )mです)


嘉吉年間(1441-1443年)に創立されたと伝えられている。
享徳3年(1454年)に松前藩祖、武田信広らが太田に上陸した際に太田大権現の尊号を賜わり、以来、航海の安全と霊神の加護として信仰されている。


※熊石「根崎神社」です。


こちらは北海道最古級の木造建築だそうです。


※創立年代は不詳であるが、慶長11年(1606)5月16日に乙部村八幡神社の神主宇田播磨守豊島が当神社の祭儀を初めて行ったとある。

※「上ノ国八幡宮」にて参拝。


こちらの神社も北海道で最古級の歴史のある神社です。


松前氏始祖・信廣公に縁のある神社です。


※文明5年(1473)武田信広が勝山館内に館神として創建した社で、北海道神社史上貴重な存在です。
本殿は元禄12年(1699)の建立で北海道内に現存する神社建築では最古に属する。
明治9年現在地に本殿を遷しました。伝説大蔵鰊の若宮社を合祀しています。
松前家13代道広、14代章広の書が社宝として伝えられているほか、福井特産笏谷石製の狛犬が社殿奥深く祭神を護っています。


「姥神大神宮」



創立年代は不詳ですが、言い伝えでは約570年前の文安4年(1447年)に折居姥の草創とされています。津花町より現在地に移転したのが正保元年(1644年)。文化14年(1817年)には正一位姥神大神社宮号を勅許された北海道最古の神社です。


※例大祭


北海道遺産に認定された「姥神大神宮渡御祭」は、今からおよそ370年前、江差の人々がニシンの大漁を神に報告し、感謝したことが起源とされます。京都祇園祭りの流れをくみ、370有余年たった今でも伝承される北海道で最も古い祭りで、各町内で保存する13台の山車が神輿行列に供奉し、3日間にわたり町を練り歩きます。

江差「姥神大神宮」例大祭!?


偶然にも例大祭、真只中!(((゜Д゜;)))


山車などいたるところに「家紋」が・・・


御朱印の中にも松前の文字が。


このお祭りは北海道最古の祭りと言われています。


迫力・規模共に圧巻!!Σ(||゜Д゜)〜!!!


いにしえの繁栄がうかがえます・・・


「本丸」到着!?(*´∀`*)


車を走らすこと数時間・・・松前到着です。


ようやくたどり着きました・・・


北海道、最南端・・・


津軽海峡の先・・・目の前に青森が。


ホントに、近いね(^_^;


※蠣崎家(後の松前家)が居城としていた大館より福山(現在の松前城の位置)に移り、1600年(慶長5年)から慶長11年にかけて陣屋を築いた。

後にロシア艦隊などが来航すると幕府は、1849年(嘉永2年)に北方警備を目的に、松前崇広に福山館改築(松前築城)を命じた。


石田城と並び日本における最後期の日本式城郭である。北海道内で唯一つの日本式城郭である。

戊辰戦争の最末期に蝦夷が島(北海道)の独立を目指す旧幕府の軍(元新選組の土方歳三が率いていた)との戦いにおいて落城した。天守は1949年(昭和24年)6月5日に失火により焼失した。そのため、創建当時から現存する建築物は切り妻造りの本丸御門と本丸表御殿玄関(北海道有形文化財)および旧寺町御門(現在の阿吽寺の山門)のみである。


※松前氏祖・武田信廣公


室町時代後期の武将。若狭武田氏の一族とされているが・・・。武芸・軍学に優れ、蝦夷地(現在の檜山地方)での戦を収めた謎の武将。

「蠣崎氏の女婿となった武田若狭守信廣については、清和源氏若狭武田の嫡流として名高い武田陸奥守信賢の子として、小浜後瀬(のちせ)山城に生まれ、家督問題から出奔し、関東足利を頼り、流浪して、安東政季に同心して蝦夷地に渡り、このコシャマインの乱を平定したことによって、蠣崎氏を冒し、洲崎舘主となって後に花沢舘主になり、さらに勝山舘を築くなど、蝦夷地南部の代表豪族に出身し、やがて子孫は蝦夷地の領主に繁栄する基礎を築き、明応3(1494)年、64歳で没した。夷王山(当時は医王山)はその墳墓地であるといわれている。」



室町時代、豊臣秀吉あたりまでは蝦夷地は「外国」という捉え方でした。

この頃、蝦夷地にはアイヌ人四十〜五十万、対して和人数千人ほどだったそうです。

十二館、和人地を死守する戦いは、想像もできない過酷な「いくさ」の連続だったでしょう・・・

松前藩が治める遥か昔、「マキリ」一本から始まったアイヌと和人の存亡を賭けた「北の百年戦争」・・・

幾多の「血」が流れ、その歴史の上に私たちは生きています。

※松前藩初代藩主・松前慶廣公


蝦夷地の戦国大名。松前藩初代藩主。松前藩の基礎を築き上げた名君として、その政治力を高く評価されている。


※江戸幕府老中、松前崇廣公


江戸時代末期の大名。蝦夷松前藩の12代藩主。のちに老中にもなった。

幕府内の対立から免職し、慶応2年(1866年)1月に松前に帰還したが、同年4月25日、熱病により松前で死去した。享年38。跡を養子・徳広が継いだ。


※松前 景廣 「新羅之記録」(現代語訳)

(正保3年1646年作原本奥尻町松前幸吉所蔵)

※幸吉さんは本家のじっちゃんで私の祖父の弟


■北海道最古の歴史文献「新羅之記録」(しんらのきろく)


1970年(昭和45年)、北海道指定有形文化財として指定。

 今日残された北海道最古の歴史文献で、奥尻町在住の松前氏の末裔の方が所有しています。

 「新羅(しんら)」は、源頼義の三男で、新羅明神で元服した源義光(甲斐武田家の祖)を意味し、上之国花沢館主であった蠣崎季繁の養嗣子となった武田信広の出自である武田家が新羅三郎の流れをくむものであることから「新羅」の名が付されています。

 なお、蠣崎・松前家は武田の氏族であり、遡れば「源氏」である旨、書かれた系図と史書を兼ねた巻子本となっており、上下二巻あります。





※松前神社御神宝「来国俊」太刀

信廣公が約540年前コシャマインの蜂起を平定したとき、蠣崎季繁からおくられた名剣。


※来派(らいは)は、日本刀の刀工の流派の一つであり、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて山城国(京都府)で活動した。主な刀工に国行、国俊(通称「二字国俊」)、来国俊、来国光、来国次らがいる。

鎌倉時代末期の刀工。国行や二字国俊に比べ、細身の穏やかな作が多い。来国俊以降、短刀の作を多く見る。刃文は直刃を主体とし、乱れ刃の作でも小丁子、小互の目を主とした穏健な作風のものが多く、大模様の乱れ刃の作はまず見かけない。現存作は太刀、短刀ともに多く、薙刀や剣もある。正応から元亨(1288 – 1324年)に至る在銘作があり、この間同名2代があるとする説もある。徳川美術館には「来孫太郎作」銘の太刀があるが、銘振りから「来孫太郎」は来国俊の通称とされている。



※松前藩校・徽典館


馬外堀坂の途中に徽典館跡がある。文政5年(1822)に創設された藩校だったが、戊辰戦争で焼失した。



松前藩には江戸明倫館と蝦夷徽典館の二校がありました。

後に文武館と改められたとあり。

蝦夷・徽典館では、学問や武術(剣術・槍術・柔術など)などが学ばれていました。

武術では江戸柳生に婿入りした縁か新陰(影)流も稽古されていたようです。

この他、宝蔵院流、直心影流、神道無念流、間影流、神籍流、シントウ流・・・などの名が資料などで見受けられます。


※松前氏、菩提寺「法幢寺」


歴代の藩主が眠ります・・・


私の家系は「新羅之記録」を編纂した景廣の直裔のようです。


この書は蝦夷地における古事記のようなものだそうです。


調べてみると・・・


松前景廣直裔、奥尻松前家・・・など曽祖父の名前も記されています。


※松前景廣〜松前 慶廣の六男(蝦夷地の戦国大名、松前藩初代藩主)


※法幢寺は諸説あるが1470年に若狭国の僧・宗源和尚が大館に開創したことが始まりで、その後1513年アイヌとの戦乱の中で焼失するが、松前家3世義広・4世季広の2代にわたり再興し、1546年に開山する。以来松前藩の菩提寺としてつづく曹洞宗の寺院である。裏手には、松前藩主松前家・歴代の墓所が繋がっている。1834年(天保5年)に、松前家御霊屋と山門が再建され、山門には四天王像が配置され、御霊屋には、松前家の始祖・武田信廣より18世松前徳廣まで、松前家一族の位牌が安置されている。内陣格天井には蠣崎波響の格調ある花鳥の画が配されている。
その後1868年(明治元)の箱館戦争時に、御霊屋と山門を残して焼失してしまうが、1881年(明治14年)には再建される。寺宝として兆殿司筆の羅漢図と10世矩広筆の涅槃(ねはん)図などがある

※初代・信廣公が祀られています。


おもしろい話を伺いました。


新選組二番隊組長・永倉新八が江戸松前脱藩(後に帰藩、小樽にて没)は有名な話です。


ナント!!大和(江戸?)柳生とのつながりです。


八代目、柳生俊則は蝦夷松前藩から養子に入り、新陰流を受け継ぎ将軍家に「剣」を指南したとのこと。


詳しくはウィキなどにも説明がなされています。


柳生 俊則(やぎゅう としのり、享保15年(1730年)- 文化13年6月5日(1816年6月29日))は、大和柳生藩の第8代藩主。
蝦夷松前藩主松前邦広の次男。正室は柳生俊峯の娘。子は柳生俊永(次男)、柳生俊睦(三男)。官位は従五位下、采女正、能登守、但馬守。
松前で生まれる。通称は為次郎、采女。初名は賢広、満広、俊満。宝暦3年(1753年)7月29日、先代藩主の俊峯の娘と結婚して婿養子となり、宝暦13年(1763年)の俊峯の死去により跡を継いだ。天明8年(1788年)、将軍・徳川家斉の剣術指南役を務めている。文化4年(1807年)8月5日、養嗣子の俊豊に家督を譲って隠居し、文化13年(1816年)6月5日に87歳で死去した。



生粋の蝦夷松前生まれの人物だったようです。


柳生新陰流とのつながりを知り・・・


一度、新陰流を勉強してみるのもありですね。


英信流の中にも新陰流の業が伝わっていますしね。


居合兵法たる所以でしょか・・・


※この居合兵法や新陰(影)流兵法で用いる「兵法」の「兵」は「軍」を指すものではなく「武具」を指します。武器を操る「法」「理」を解いてます。



※正面のお社は松前藩の先祖に当る武田信広公をお祀りしています。明治14年に造られ、現在の神明造りの社殿は大正12年総ヒノキ造りで再建されたものです。
信広公が約540年前コシャマインの蜂起を平定したとき、蠣崎季繁からおくられた名剣、来国俊など十余年振りの刀剣の外、豊臣秀吉から拝領したといわれる桐の彫刻、安政年間の松前市街図があります。


※永倉新八〜松前藩江戸定府取次役(150石)・長倉勘次の次男として、同藩上屋敷(江戸下谷三味線堀、現・東京都台東区小島2丁目)にて生まれる。弘化3年(1846年)、岡田利章(3代目岡田十松)の神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。4年目に師が亡くなり、以後、岡田助右衛門に教わり15歳で切紙。安政3年(1856年)、18歳で本目録。元服して新八と称する。同年、剣術好きが昂じて[1]脱藩し、永倉姓を称して江戸本所亀沢町の百合元昇三の道場で剣を学ぶ。その後、市川宇八郎(芳賀宜道)と剣術修行の旅に出る。江戸に戻ると、伊庭秀業の門人・坪内主馬に見込まれて師範代を務め、その後、近藤勇の道場・天然理心流「試衛館」の食客となる。

近藤らと共に浪士組に参加。新選組結成後は、二番組組長や撃剣師範を務めるなど中枢を成した。元治元年(1864年)の池田屋事件では、近藤や沖田総司らと共に池田屋に突入。沖田が病に倒れ、藤堂平助が負傷して離脱、永倉も左手親指に深い傷を負った中、防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。事件後、新選組の勇名は天下に轟いた。その後、近藤に我儘な振る舞いが目立つようになると、これを遺憾とした永倉や斎藤一、原田左之助、島田魁、尾関政一郎、葛山武八郎は、脱退覚悟で近藤の非行五ヶ条を会津藩主・松平容保へ訴え出る等、近藤勇・土方歳三との路線対立を見せる。後、幕府から見廻組格70俵3人扶持(京都見廻組隊士と同格の地位)に取り立てられた。油小路事件では、原田らと共に御陵衛士を暗殺。

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは、決死隊を募って刀一つで突撃する豪胆さを見せた。江戸に退却後、新選組改め甲陽鎮撫隊として新政府軍と甲州勝沼にて戦うが敗れ、江戸へ戻った後は近藤らと袂を分かつ。その後、靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東にて抗戦するが、米沢藩滞留中に会津藩の降伏を知って江戸へ帰還し、その後、松前藩士(150石)として帰参が認められる。明治4年(1871年)、家老・下国東七郎のとりなしで藩医・杉村介庵(松柏)の娘・きねと結婚して婿養子として松前に渡る。

明治6年1873年、家督を相続して杉村治備(後に義衛)と改名する。その後は北海道小樽へ移る。警察官僚・月形潔の招きで、明治15年(1882年)から4年間、樺戸集治監(刑務所)の剣術師範を務め、看守に剣術を指導する[2]。退職後は東京牛込にて剣術道場を開く。明治32年(1899年)、妻と子供が小樽市内で薬局を開いていたため、再度小樽へ転居。明治38年(1905年)から小樽市緑1丁目(旧小樽少年科学館付近)に転居。明治42年(1909年)7月、小樽市花園町に住む。東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)の剣道部を指導する。

大正4年(1915年)1月5日、虫歯を原因とする骨膜炎、敗血症を発症し、小樽にて死去。享年77。分骨され、墓は東京都北区滝野川の寿徳寺境外墓地。字は蜂須賀正昭侯。


※「姥神大神宮」の御朱印です。

朱印の中に松前の文字が見て取れます。

※「松前神社」御朱印

家紋が光ります・・・(笑)


※目覚めると天守閣が見える風景・・・


なんかいいですね〜・・・最北の城下町。

※夏の風物詩・・・前浜うに捕り漁。


奥尻のじっちゃん思い出すな〜(  ̄▽ ̄)


磯船の巻き上げや、ウニのガラ投げ手伝ったっけ・・・


剥いた身には触らせてはもらえんかったな〜(^_^;


奥にうっすら青森が見えてるね〜♪


昭和の大横綱!千代の富士!!


箱館までの途中、福島町に立ち寄ります。


北海道が誇る大横綱・千代の富士関にご焼香するためです。


丁度、九重部屋が夏季合宿を行っているとのことでした。


幼い頃TVで観た北海道出身同士の大一番、北の湖vs千代の富士・・・


凄かったね〜!!

※愛刀と土俵入り

愛刀、四口と土俵入りの写真の展示。




☆.。.:*・は〜るばる、来たぜ〜っ!は〜こだて〜っ♪☆彡


ベタやな〜・・・(*´∀`*)、箱館はベタに楽しみますm(_ _)m


ベイエリアに宿取って、朝市あさり・・・\(^ω^\Ξ/^ω^)/


ラッキーピエロも忘れずにっ∠( ˙-˙ )/


ハセストもねっ!(ゝ。∂)☆.。.:*・


単純に楽しみました〜(*´∀`*)


旅の終わりに・・・(ー_ー;)


北斗の守護神、ずーしーほっきー大明神!?


グッズが欲しくて新函館北斗駅に。


本人はいましたが・・・グッズが( ̄◇ ̄;)


ん〜・・・ないっ!!_| ̄|○


残念無念・・・チーン(ˇ人ˇ。)


その後、大沼に寄って名物「大沼だんご」


まんべ・・・おしゃ、まんべにて「かなやのかにめし」を(@ ̄ρ ̄@)♪


い〜じゃあ〜ないのぉ〜( ̄ー ̄)ζ*’ω’)ζ


無事、白老帰還です♪(*´∀`*)ノ。+゜*。



と、いう感じですが「松前一家 松前詣」後々継ぎ足し継ぎ足しで資料を追加して参ります・・・「深い」味が出るように(*^^)v


それぞれの地域の松前文化の伝承・保存には・・・ただただ驚くばかり。

血脈というだけで何もしてこなかったことに反省至極です。

言葉では言い尽くせない旅でした・・・